堆砂が多いので、排水面高さがあがり発電機を緊急停止させ今にいたる。
このことは東京電力から国土交通省に即日報告済みである。 公表するかどうかは監督官庁の判断に依存する。
崩沢砂防堰堤、不動沢堰堤堰堤が国策にて戦前整備され、昭和25年時点では満砂になっている。 そこで省は大規模な砂防堰堤を設置することを計画した。(昭和20年半ば)設置場所は建設省が決定。
高瀬川エリアでは1920年に地元の土建業相模組のチカラをかりて東信電気が高瀬第一発電所工事を開始しており、この高瀬第五東信電気としては5番目?の発電所にあたる。
高五(たかご)と略してよぶ。高五は1925年稼働。
この電力を利用して昭和アルミ工業所(のちの昭和電工)が誕生し、大町で産声をあげたのが1933年。 この昭和電工の売り上げをベースにして森コンチェルンが形成されていく。呉羽紡績が「大町紡績」として1936年に進出。
東洋紡に吸収されたあと地元ではクレハと呼んでいた。オイラの記憶では吸収後の1972年ころまで呼んでいた。呉羽の生協は良かったぞ。
高瀬ダム着工の切っ掛けは昭和44年(1969年)の水害である。 森コンチェルンの母体である昭和電工敷地が浸水し、松川村では田んぼが水没してしまった。 森コンチェルンとてお怒りになったので、省は慌てて洪水が引けて直後に砂防工事を発注した。
「暴れ高瀬」として土建屋には有名な、高瀬川である。 また槍ヶ岳からの本流は上質な骨材とも知られており、霞石は江戸時代から珍重もされてきた。 霞石の採取・販売だけで業として成り立っていたようだ。 そこに天然記念物指定されたので、霞石のことはいまは知らない地域住民の集まりになった。
昭和20年代の科学技術では画像検査などない頃であり、上流から流れてくる岩砂量を測ることはできない。 画像検査が技術としてでてきたのはwin3.1以降である。国産ではチノンCCDが技術TOPであり、後続に東芝がつづいた。レンズマウウントのCマウウントは、東芝制定規格が国際的に普及した結果である。
グラフィックボードが廉価になりだした1999年ころから京都大学の「画像による堆積量調査」がおこなわれるようになった。高瀬ダム着工が1969年なので、流下量を掴めるようになるまでに30年の違いがある。 土建業での分析は京都大が国内TOPであり 産総研はちと劣る。東大はこの分野弱い。
堆砂が多いと2000年頃から云われても、着手時には測る技術が地球上で存在しない。その指摘は時間軸上で間違っている。
「測る技術がない時代にどうやれば測れるのだ」とオイラは逆質問したい。